昭和41年01月06日 夜の御理解
神様を動かすものは、真心一心と、熱意です。どんなに、良い信心をしておる様でありましても、熱意がなかったら、神様に通じません。真心一心と熱意がなからなければなりません。私共は、中々何事にも真心一心になれとか、熱意を、何事にも熱意を持つと云う事には、中々至難な事です。難しい事です。けれども、こと。それが神様に向けられる心。神様に向ける時だけは、これは、真心一心を、私出さなきゃいけません。しかもそれに熱意を掛けなければいけません。
熱意とそれは、触れば「熱っ」と言った様なもんです。もう線香、一本の火でも良いですから、紙の裏表を貫き通す様な、その熱意、その熱気です。例えばどんなに沢山の蛍の光を、千匹集めた所でも、ぼんやりしたそこの明るさだけではいけません。けれども神様へ通う神様に貫く、かみ一枚でも、貫く事が出来ないでしょう。信心しておれば、なんとはなしにです。家庭がなんとはなしに、信心の光と信心の明かりというものが、段々出来てくるもんです。
けれども、その神様にその通う熱気と言う物。「熱っう」と言う様な物が。無いならば神様へ通う、神様を動かす様な事にはなりません。神様を動かすおかげ。「信心しておかげを受ける」と云う事は神様の、神様を動かす事。この熱意が大事だと私は思うですね。ですからもう日常生活のどの様な事にでも、「実意丁寧神信心」とこう言われておりますけれども。
なかなか私共の場合に、実意を欠いておるのが多い事に驚きます。ですからお互い神様に向ける時だけ、自分の心を神様に向ける時だけは、真心一心でなからなきゃならん。しかもそれには「熱っ」と言った様な物を感じる。「ああ眠かけんでん、寝てからもう一時してから起きよう。」と言った様な事で、神様に通いやしません。眠かってもそれこそ「ハッ」と。
こう飛び起きる様な、いわゆる熱意なんです。時間が来たら「ハッ」と飛び起きる様な、そのひとつの熱意というものが、神様へ通う。熱意だけでもいかん。ようするに真心一心が神様に向けたら、その真心赤い心赤心。これを打ち向けての、しかもそれが一心。この頃から少年少女部会の日に、冬休み中を「朝の8時から、御祈念をする為にお参りをしよう。」という子供達、皆んな約束をしたらしい。
若先生の先唱で御祈念をして頂いて、そして後御理解を頂いて、皆んな帰ろうという、その良い計画がなされた。所が私は知らなかった。所が朝の御祈念の時に宮崎さんが、あの泉さんを連れてから、お参りになっとる。「今日から、あのう少年少女会の御祈念があるそうですから。」とこう。「あら、そうですか。あら、知らなかった。」そんな日に限ってから、若先生が起きて気とらん。
もう、8時になったけれども、起きて来んとです。それで私が神様へ若先生の変わりに御祈念をして、御理解をほんの内々の者だけで伝えた。よそから来た者はもう泉君たちも、みんな帰ったから後は一人か二人かだった。家の子供達が、出てきておるだけであった。皆さんもご承知でしょうが。その晩の御理解に、「少し気合を入れろ」と。あくる日から一心になった。真心になった。熱意を出して来た。
もう本当に話し合うた様にですね、子供達が毎日数を増して来るんです。お参りに。8時の御祈念に皆んなお参りをして来るです。今日なんか二十人近くありました。しかも、毎日数を増やして、増えて来るのです。神様に生きた心。真心一心。しかもそこに「熱っ」と言う様な熱意が、こりゃあ出来ておる証拠。そう言う様な、その熱意を持たなければダメです。先程、秋永先生達が見えて、私の学院に行く事に付いてから、色々お話があっておった。私はもう学院に行く事を、もう腹を決めとる。
だから「あなた方の場合は、どんな風か。話し合いをせんでもいいのか。」という話をした時に、秋永先生が、「親先生、あなたが行く事に決めとんなさりゃ、後は何にもなかですたい。」っち。と言った様に、皆んなが投げやり的な事を言うから、私がそれを捕まえといて、言うんです「あんたどんそれで良かならいいよ」と。久保山先生も御結界から下がって来てから。
この先生はもう本当に私を、御本部にやるまいとしなさる事の、一番中心人物と思うんですけれども、それこそ、熱意を持って、その事に付いて話されておる、おられた。そしてから私の心眼に、そん時に頂くのがですね、「荒木又右衛門。荒木又右衛門」と言う人は、こんな人だろうと思うです。ここへ手裏剣を何本か鉢巻をしてですね、いわゆるその剣をこう持って、構えた所を頂いた。その相手が、三人、五人じゃないのですから。ならそれこそ、誰の手でも借りたいとです。
両方の手は言うに及ばず愈々の時には。この手裏剣だって投げにゃんごとある、大事な時。しかもこれは伊賀流というてね。もう御理解を頂いても一番難しい峠を越すためには、このように、両方の手だけじゃない、この頭に挟んどるこの手裏剣まで、使わなければならないと言った様な時、と言うような、これは大変意味深長な事だと思いますけれどもです、そのあれは久保山先生のひとつの目つきにですね。
神様が、「教えて下さったんだ。」と、こう思うんです。これは大変意味が深い事ですから、これはまぁ、そのこの意味を皆さんに、どうっと言う事は申し上げられませんけれどもです。ですから、私が申しました。例えば私がうんなら、御本部に行くと腹を定めとってもです、信者の中にですね、それこそ熱意と真心と一心を持って、「今年だけは、親先生に行って貰っちゃならん。」
という、本当の熱意の人があるとするならばです、例えば、真実というものはです、どんなに向こうを向いとっても、こちらに向ける事が出来るという。金神様でもそうだったでしょう。教祖の神様の、言わば熱意によってです、悪神邪神と金神というたら、悪神邪神かの様に言うた、金神様がです、教祖の神様の熱意と実意丁寧神信心によって、向きを変えられた。
向きを変えられたら、慈愛溢れる所の、天地の親神様のお姿になられた、と言う様にです、「あんたが行く腹なら私どんが、どげん言いまっしょうか」と、言った様な事では、いけないと云う事です。と、そんなものを感じさせて頂いた。どうでもひとつ、もう信心にはですね、もう自分の、自分を中心にした様な考え方では、神様にそりゃお取次ぎを頂けば、お願いをすれば、おかげは受けますよ。例えてこういう一番、私あのう一番、良い例はですね。椛目に本当に打ち込まずにですね。
ただおかげだけを素直な心で、おかげだけを素直に求め来る人は、こりゃもう了見には及ばんごと、おかげを頂くです。そういう例は幾らも有ります。例えば福岡当りの、川上さんなんかは、何時も秋永先生が言う様に、もう特別打ち込む訳でもない。けれども、素直に「おかげを頂きたい。」という一念です。親先生が仰る事は、もう本当に、神様が仰った事として受けるんです。
それで、信心を進めようと言う訳でもないです。例えば、あの杷木の、山口洋品店なんかがそうです。月のうち、まぁ二回も参るなら、良かほうでしょう。もう大売出し。もうここに、おかげ頂様になって、林さんもう五、六年位になるでしょうかね。ああたがたとどっちですか、アーケードの勝手口ですから。もう五、六年位になるかも知れませんが。もうこれは、もうこれは了見ににおよばんです。
もう本当に了見に及ばんごとおかげ頂くです。売り出しなら、売り出し、もう仕入れなら、仕入れごとがもうお伺い通りなんです。そんなら同じ、うんならお商売ならお商売でも、むつ屋ならむつ屋でもあげな風に、働きなさりゃ良かごとあるけどです。所がむつやの場合は、本当、力を与えようとして御座ると云う事です。徳を与えようとして御座ると云う事。力を与え御座ると云う事ですよ。所があのう、杷木の山口洋品店はそうじゃないです。(?)旗崎の信者さんです。
それでもその主人は、毎朝杷木の教会に参いんなさるっちいう。それで奥さんがただお願いの時だけは、参って来なさる。けどそりゃ本当に不思議なおかげを頂くです。了見に及ばん位におかげ頂くです。「ほんなこつじゃろうか。」と言う位におかげ頂くです。しかも年々歳々それがおかげになっていくです。ところがこの十二月の初めに、なんとかいう売り出しがあったんです。そん時に私ここで頂く事が。あのうその時その四、五日の、売り出しだけではなくてね、「年末までの事を願いなさい。
年末までの事を願え。」との事じゃった。で、自分も分からんなりにその帰られた所が、その売り出し中も杷木の町を上げてだったそうですけれども、商いが無かったそうです。けれども「椛目の先生が年末まで願えと仰ったけん、違わんごとおかげ頂くとじゃろう。」っち言いよったけれどです、「けれどもこげん売れんごとあるなら、こりゃ年末の仕入れはでけん、」と言うて、またお伺いに見えた。
ところが仕入れは非常にしておけじゃった。今日お礼に出て見えました。もうそれはもう本当にお話があるごとおかげ頂いちゃるです。「先生が言われた通りに仕入れさして貰うて。」そして「昨日よりもどれだか多い。」というもう、もう本当にもうだから『椛目の先生の仰るとおり、間違いなかばいの、お父さん』っち言うてから、その申しました。っち。もうなんからかにまでそりゃもう本当に「万事万端のご都合お繰り合わせを頂いて、おかげを頂いた。」とこう言う様なおかげの現われ方もあるです。
だから椛目の本当にいわゆるこの。してから今日言いよんなさいました。「『はぁ本当に椛目にあげなご造営がありよるが、皆さんがこげなおかげ頂きなさるけん、やっぱあげな御造営が出来るとじゃろう。』っち言うてから、主人と話しました。」と言われる。そうじゃなかですもんね。椛目の場合は。「御用でもさせて頂き、おかげでも頂きたい。」と願えば願う程、本当のところから、おかげを下さろうとしておるから、そう見易うはおかげは下さっていないと云う事です。
椛目の場合は。ですからそのおかげをうんなら頂かせて頂くと云う事もです、例えば私が申します様に、唯、漠然としたもんではなくてです、真心一心だからあれにもこれにもです、日常生活の中で。「真心、真心」。「一心、一心」と言うてもそう実意丁寧神信心、真心一心と言う様な事を中々しようとしても出来ないのが私達なんです。けれども神様に向けてだけ、だけは神様の事に限ってはお参りに限っては。
お供えの事に限っては。真心一心を持って、しかもそれに「熱っ」と言う様な熱意を込めなければ駄目って。例えばうんなら私の方の若先生が今度少年少女部会のです。その事に一番初日に失敗した。大体いうなら前の日に取り決めた事ですから。あくる日子供達の事だから、ガバッと参って来るのが本当でしょうが普通言うたら。所が中心の若先生が、寝て起きない。八時になったちゃ起きとらんのだから「神様が集めなさらない」と云う所にもうどうにもこうにも出来ん、神様の働きを感じるですたい、ね。
「こんな事じゃいかん。」と気を入れられた。入れられた。あくる日から神様に向ける真心が、一心がひとつになって来た。それに熱意までもが込められて来た。日に日にその少年少女部会の人達が、椛目の場合はあっちこっち、こうひと部落じゃなかでしょうが。あっちこっちからでしょうが。子供達、話し合うと言う事も出来んとですよ。それがもう日を追うて、多なって来ると言う事。これ毎日「久保山先生、あなたも、気が付きなさったでしょう。」っちいうてから。
昨日、言うた事。「はい。私も、それ気が付いとる。」っち、久保山先生が言われる位にですね、この人が、真心一心が、熱意を持って、打ち込めば打ち込むだけ、言わばそういう形の上にも、数の上にでも、はっきりおかげがしておると言う事。私だから今日は、もうほんと言うたら「どの様な事でも信心になれ。」と仰るのですけれども。まして神様に向けてからは。
事、神様の事であればですね、真心が、一心が、欠けておると言う事から、真心一心を、本当に絞らせて貰って、しかもそれには熱意を込めると言う事「熱っ」と、言う様なですね、「もう、眠かけんでん。こげな用事のあるけんで。」と言う様なものではです、神様を今日申します動かす様なおかげにはなって来ないと言う事。
どうぞ、おかげを頂きますように。